お釈迦さまの世界へようこそ

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お釈迦さまの教えを考える。

   1.お釈迦さまは2400年前の人である。(紀元前500年~400年頃)   ブッダの誕生
      前463年 ブリタニカ国際百科大事典
      前465~前386 百科事典マイペディア
      前563年~前483年  スリランカの伝説
      入滅 前386年 宇井伯寿
      生没 前463年~前383年 中村元  前428年 成道

   2.お釈迦さまはインド・ネパールの人である。

   3.お釈迦さまご自身が文字で経典を書いていない。

      現在伝えられている経典は、お釈迦様のお弟子や後世の人々が書かれたものです。

   お釈迦様が亡くなられるとき、最後のお弟子となったスバッダに語った一説がある。
    『スバッダよ。わたくしは29歳で、なにかしら善を求めて出家した。わたくしは出家してから50年余となった。
    正理と法の領域のみを歩んできた。これ以外には〈道の人〉なるものも存在しない。』
                                  中村元 「ゴータマ・ブッダ2」  334頁(大パリニパーナ経)
      
    お釈迦さまは、教えを作ったのではありません。
    気付いたのです。(‥お釈迦さまの教えの重要な点)

          気付いたことに重要な意味があるのです。
           気付いたと言うことは、過去から現在、未来までそれは続いているのです。

         ニュートンが万有引力を発見し、アインシュタインが相対性理論を発見しように
          お釈迦さまが発見した教え(理論)は、私たちの現在にもあるのです。
           よって、2400年後の私たちにも、お釈迦さまが気付いた論理に触れ、実感することができます。
            中心を貫く教え、誰もが逃れられない教え

   経典によると悪魔は、
 「あなたは人に教えを説く資格があるのですか。言うことをよく聞く人には優しくし、言うことを聞かない人間を憎いと思う。
 説法をしながら、そういう執着があるのではないですか。」

   それに対しブッダは
 「如来が人に教えを説くのは、人々への思いやりから説くので、言うことを聞いてくれるとか、
 聞いてくれないとかいうことから離れている。」
                                                 (「サンユッタニカーヤ」)


              それは、生滅無我の教えです。

           生ずる性質の物は、滅する性質を持つ。
            誰もが知っている教えですが、自在に使うことは難しいことです。
             それは、自分の身近な人やものは、永遠であって欲しいからです。
              一番大切な自分自身は、永遠に生きます。
               昨日も生き、今日も行き、そして、明日も生きます。

        しかし、生ずる性質のものには、滅するときがやってきます。  必ず……

  無我とはなんでしょう…
   仏教の辞典をみると、「我」には様々な意味が書かれています。

        インドの一般の諸哲学においては、人間の自我の中に、中心となるものを
        認め、これが常住であり、一なるものであ り、主宰するものであると考えて、これを
        「我」とよぶ。仏教以前のウバニシャッド哲学では、この「我」の意義が力説され、宇
        宙我であるプラフマン(brahman)との相即が説かれた。
        また仏教興起時代の異端の諸哲学においては、我、すなわち霊魂が実体として
        存在すると想定していた。
        ブッダはこれに反対して、「我という実体は認められない」といって、これについては、
        ありともなしとも断定をひかえるという無我の立場を強調し、存在は、縁起によって起
        こるものであると説いた。
                              広説佛教語大辞典(抜粋)     中村元

我とは、不変なものをいいます。
私たちの世界は、不変でなく、常に変化しています。
変化していることに気付かないだけです。
私も含め、すべてが変化している。
老朽化し、壊れて行くとことを常に自覚し、必要以上に執着しないことです。
この画面を見ているパソコンや、携帯電話も老朽化しています。
データは、バックアップをとりましょう。 ウイルス対策ソフトを入れましょう。
機械は壊れます。

              誰もが知っていますが、自分のは大丈夫と思っていませんか。
               それが私たちの生き方なのです。
                その時が来て、慌てふためくのが人間なのです。

     誰もが知っている当たり前のこと、そんなこと知っていますよ。
      そうです、特別に変わったことではありません。
       しかし、この教えを自分の生きる指針にしている人はいるでしょうか。
        知っていても出来ないのが人間です。私です。あなたです。
         毎日先送りしています。
          生きていることが正義と思っていませんか。
           世間は、生きることは正義、死は敗北という風潮です。
            死は、誰にもやってくる自然の出来事です。

    仏教に生き方を探って下さい。
     お釈迦さまのお覚りは、生きていく土台になります。
      そこには、神通力やお祈りや奇跡等はありません。
       仏典を遡っていくと、お釈迦さまの時代に近付くほど、不思議と仏様がいなくなります。
        お釈迦さまは、仏様を拝んでいたのでしょうか。
         私たちは、自分だけ仏様の力を借りて、うまいことをしようと思っていませんか。
          うまいことをしているのは誰でしょう。
           うまいことしたいと思っているのは、欲のなせる業です。
            それを気付かせてくれるのが、お釈迦さまの教えです。
         
        
   日本の宗祖仏教は、宗祖の教えを説き、お釈迦さまの教えが2番になっています。
    原始経典も一部の人しか学びません。
     それは、宗派の寺院・財政を支えなければならないからです。

         生滅無我の教え………
             地球が存在しても、しなくても……
             人類が生存しても、しなくても……
          お釈迦さまの教えはここに流れています。 

正理とは、①正しい道理。すじみち。正しきことわり ②論理    広説仏教語大辞典
 
正理は、人が選択できないもの。 法は、人が選択できるもの。      

 
  勝林寺